井伊直政を知る


歴史もの語に登場する人もののことを知るためにインターネットで検索している人は少なくありません。
メインキャストではなく、極めて単にだけ出る人ものが、そこに描かれているのは全くマニアックな人ものが少なくありません。
たとえば真田丸に出る井伊直政の嫡男でしょうか。
井伊直政は豊臣秀吉が生きていたころから徳川家康に仕えていた家臣です。
その赤備えは武田家ゆかりとなっています。
ただ、真田丸には井伊直政本人は登場しません。
さりげなく、ちょい役として嫡男が登場するのです。
聞き取れる人にだけ聞こえる状況を、知らない人は悔しく思ってしまう。
井伊直政について調べてみて下さい。
するとほとんど有名な武将であることがわかります。
彦根藩の藩主として彦根城博もの館に多くの資料が残されています。
インターネットで検索して見分けるのもいいのですが、現地に出かけるチャンスがあれば、ぜひ訪れてみましょう。
インターネットの情報は偏った視点になっているケースが少なくありません。
殊に個人的に書かれている記事にはその傾向が強いのです。
徳川家、豊臣家、どちらに肩入れしてもいいのですが、歴史を分かるためにはそれほど意味はないでしょう。
井伊直政は徳川家四天王、三傑として知られています。
武芸、とにかく槍の名手となっているのです。
多くの武将たちが登場しては消えて行った戦国時代ですが、その中で名前が残っていることから、それだけの才覚があったことは間違いないでしょう。
自分で延々と調べてみて下さい。

井伊直政と赤鬼


井伊の赤鬼と異名を取ったことがエピソードとして残されている井伊直政ですが、本人がはたして鬼のようだったというわけではありません。
赤い兜を重なると鬼の面に似ているため、赤鬼ときらいられたのでしょう。
やはり、槍の名手ですから、赤鬼を見ただけで敵は戦いを放棄して逃げて行ったのかもしれません。
井伊直政は徳川家康の家臣として生涯忠誠を尽くしています。
その代わりに徳川家康からも至極信頼されていたと言われています。
それは各種書ものに書かれています。
年齢的にも他の家臣を退けて四天王と呼ばれるまでになった人ものです。
武術だけではなく、家臣同士の連携など大局的視点を携帯している武将だったようです。
いずれにしても、戦国武将で赤鬼と言えば井伊直政としていいでしょう。
具体的にどんな活躍をしたのかを解ることで、その時代の人たちの生き様が見えてきます。
徳川家康よりも好印象を受けるのは私だけでしょうか。
主人の補佐として自分の役割を確実にこなすことができた武将はあんまり多くありません。
井伊直政はその中の独力と言っていいでしょう。
歴史の表舞台を助けることで名を遺すことができたのです。
当時の彦根藩の人々からも慕われていたのではないでしょうか。
あまり赤鬼などと恐れられていたはずはありません。
ただ、戦となった時折先陣を切って、槍の名手となったのです。
口数も早く、ただ相手の話をしっかりと訊く姿は現代の会社における上司のお手本と言えるかもしれません。

井伊直政の兜


井伊直政の兜は激しく天に突き出ています。
それは井伊直政が赤鬼と異名を取ったことも関係しているでしょう。
若くして徳川家の四天王と言われており武芸に秀でているだけではなく外交官としても重要な役割を果たしています。
つまり、徳川家康にたった仕えるだけではなく、他の家臣と連絡を取り合って、戦を勝利に導くための策を考えていたのです。
兜は武将にとって大きな意味を持ちます。
言わば、その兜が井伊直政の人ものを表していると言えるでしょう。
彦根城の博もの館には井伊直政の銅像が飾られています。
等身大ですからかなりの大きさです。
馬にまたがり槍を保ち、適切兜を締めています。
滋賀県に行くことがあれば、どうしても見学してくださいと思います。
もちろん、歴史に名を残している人ものだから、たった槍が強かったというだけではありません。
藩主として地域を押さえるために、各種施策を取っています。
細い記録が残っているわけではありませんが、江戸時代の終わりまで井伊家が続いていることからも徳川家から厚い信頼にあたっていたことが想像されます。
それも初代藩主の井伊直政の際立つ人格がものすごく貢献していることでしょう。
歴史の中から自力の人もの像を探る時折、その時代背景をよく考えておかなければなりません。
時代に翻弄されたのか、時代を作ったのか、時流に乗ったのかということです。
時代とその人ものがマッチしていれば大きな業績を残すことができます。
逆であれば不幸な生涯となることでしょう。